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感想:三つの自画像と拡声

f:id:joyfulltomoya:20161006154617j:plain パープルームの野方での展示「三つの自画像と拡声」を10月4日に観た。

Webサイト: http://www.parplume.jp/tennji/tokusetu201610.html

2日ほど反芻していたが、様々な解釈ができつつもいずれも確証に欠けるような、一筋縄にはいかない印象がある。美術手帖の土屋誠一さんのパープルタウン評を踏まえつつ、その肯定とも否定ともとれる。(土屋さんの論考ちゃんと読み込めてないかもですが)

一見すると「作家はキャラだ」「生活も作品だ」といった主張を受け取れる。しかし、現地で見るとそれほど単純な構造でないことが分かる。透明な膜によって路上と隔たれたホワイトキューブ。木材の肌丸出しの家具。金一色の床。コピー用紙に印刷された大量の言葉。空間は絵画化され、その登場人物のようにあまさんが住んでいる。

会場内でのあまさんは、作品の一部であると見て間違いない。しかしそれが成り立つ条件は非常にハードで、54時間ほぼぶっ続けの在廊、繰り返される生放送、そしてこれまでネット上に積み上げてきた一貫したキャラ作り、すべてが必要となる。さらに重要な予備知識として、「会期中のあまさんはオナ禁されている」という事実がある。これは、あまさんをキャラとして捉えた場合のそれが成り立っている条件、転じて「作品が生まれる条件」に肉薄する手法なのではないかとも思う。

ついでに、同展から少し離れて僕のパープルーム観を言うと、「会えるアイドル」のような感覚がある。彼らはTwitter上では物語の登場人物のように生活感が無く、キャラが一貫している。そして、展示では高い確率で在廊していて、会える。制御された「会える感」。同展でもそれを意識した。